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H27.4.16 中津城・福沢諭吉旧家

H27.4.16 中津城・福沢諭吉旧家

城下町中津のシンボルとなっている中津城は、天正15年(1587)黒田孝高(如水)の築城に始まり、以後、細川、小笠原、奥平と城主が変わり、明治4年(1871)に廃藩を迎えた。現在の城は昭和39年5月に旧藩主の子孫奥平家十七代の当主、昌信氏によって再建されたもので、高さ23m(5階)5層の天守閣が新改され2階2層の櫓からなっている。天守閣は資料館として公開され、衣装、刀剣、陣道具、古文書など、奥平家所蔵の宝物が展示されている。城全体の地形が扇を開けた形に似ているので扇城とかいわれ満潮時は海水が内堀に入るので海城ともいわれた。◎黒田孝高(1546-1604)播磨生れ。安土桃山時代の武将。天正の初めより信長に属し、秀吉の参謀として各地に転戦、功あり。天正15年豊前6郡の地を賜う。17年退隠、如水と号す。◎細川忠興(1563-1645)(三斎)。丹後宮津より豊前中津に移封。子忠利に譲り退隠。忠利と共に肥後入国。和歌・蹴鞠・有職に通じ、茶道は利久の弟子。◎奥平昌高(1775-1855)五代中津藩主。寛政2年藩学「進修館」を創立。『蘭語訳選』や『中津バスタード辞書』など、いわゆる「中津辞書」を出版、洋学の発展に貢献。

福澤諭吉は、天保5年(1835)に大坂の中津藩蔵屋敷で、13石2人扶持の下級武士福澤百助の次男として生まれました。1歳6ヶ月の時父と死別し、母子6人で中津に帰郷。貧しくとも信念を持った少年時代を過ごし、14歳になって儒学者白石照山の塾に入りました。
  安政元年(1854)、19歳の時蘭学を志して長崎に遊学、翌年からは大坂の緒方洪庵の適塾で猛勉強に励みました。安政5年(1858)には、藩命により江戸の中津藩中屋敷に蘭学塾を開きました。これが慶應義塾のはじまりです。
  西洋の語学力と知識をたくわえたいと考えた諭吉は、万延元年(1860)「咸臨丸」に乗り込み渡米。以後、ヨーロッパ諸国も歴訪し、社会の制度や考え方などに旺盛な好奇心で見聞を広めました。その後『西洋事情』『学問のすゝめ』『文明論之概略』などを続々と著し、当時の日本人に西洋文明の精神を伝えました。

合元寺(赤壁寺)について

通称「赤壁」といわれるこの寺は、天正15年(1587年)、黒田官兵衛に従って姫路から中津に移り住んだ浄土宗西山派、開山空誉上人が開基したと伝えられています。その後、天正17年(1589年)、黒田氏が前領主の宇都宮鎮房を謀略をもちいて中津城内で暗殺した際、その従臣らがこの寺を拠点として奮戦し最後を遂げ、その時の血が何度塗り替えても染み出てくることから、ついに赤色に塗り替えられるようになった、というのがこの赤壁の由来となっています。当時の激戦の様子は、寺の庫裏の柱に残る当時の刀傷からうかがい知れます。また、戦死した鎮房の家臣は合葬し寺内の延命地蔵菩薩堂に祀りたてられています。


by k-dantyan | 2015-05-04 13:55 | 城跡巡り | Comments(0)