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H27.5.24 西部サロン

a0212557_16121417.jpgこんにちは! ダンチャンのデジカメ日記にようこそ!



H27.4.24 西部サロン例会

今回は、各自の課題について学習や取組を行う自由に雰囲気の中で開催された。インターネット接続について前回から課題となっていたが、検討の結果、WiHiに来月から変更することが確認された。
茶話会では茶菓子の差し入れもあり、和やかな雰囲気で参加者全員楽しく交流できた。

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by k-dantyan | 2015-05-27 07:06 | KSNへの参加 | Comments(0)

H27.5.21 KSNキス釣り大会

H27.5.21 KSNキス釣り大会
KSNキス釣り大会は昼食会参加者を含め、15名の参加により、好天に恵まれ、釣行と併せ、懐石料理を舌ずつつみしながらの楽しい大会となつた。大会は遊漁船3隻により下記のとおり開催されましたが以外と遊漁船組の釣果が振るわなかったことに驚いた。    
開催日: 2016年5月21日(木)
日 程:  07:40 上天草市松島町阿村「渚亭駐車場集合」(URL:http://amakusanagisatei.jp)
      08:00 出港
      12:00 納竿、検量、入浴(希望者)
      13:00 表彰式、昼食会
場 所:上天草市松島町阿村付近
参加費:遊漁船料3000円 昼食費2000円(懐石料理)
合計:5000円  昼食会のみ参加者 2000円
その他:釣り道具、エサは各自準備
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釣果成績は次のとおりで、2尾長、総重量で1位であった。
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by k-dantyan | 2015-05-22 16:59 | KSNへの参加 | Comments(0)

H27.5.11 杵築城

a0212557_16121417.jpgこんにちは! ダンチャンのデジカメ日記にようこそ!


H27.5.11 杵築城


1394年の築城以来、600年もの間この町を見下ろしてきた杵築城。模擬天守とはいえ、城跡にそびえる三層の天守閣は在りし日のこの城の姿を偲ばせる。

室町時代初期、木付氏によって八坂川の河口にある台山の上に築かれたこの城は、北は高山川、東は守江湾といった天然の要害に囲まれた城であった。その後の天災、震災などで城も場所や形を変えながら、主もまた前田、杉原、細川氏と入れ替わり、その後の小笠原氏、そして松平氏を最後に江戸の時代も終わりを告げ、杵築城は新たな城主を迎えることなく今に続く。現存するのは一部石垣など。

現在では山上が城山公園として整備され一般にも開放されていて、市内のあちこちで発見された国東塔など貴重な石造物を野外展示している石造物公園もある。築城当時“木付城”と命名されながら幕府朱印状に誤って“杵築城”と記されて以来「杵築城」に。また島津の猛攻撃に2か月も耐えたことから別名「勝山城」とも呼ばれている。



by k-dantyan | 2015-05-14 13:02 | 城跡巡り | Comments(0)

H27.4.27 竹田市「岡城」に行く

久しぶりにW650で竹田市の「岡城」に行く。兵庫の竹田城を思い浮かべながら竹田城にも匹敵するお城の全容を確認したいという考えからのツーリングだ。また、かってのツーリング仲間とのツーリングで訪問したところでもある

標高325mの高さにそびえ立つ堅城。文禄3年(1594)に豊臣秀吉の命でこの地にはいった岡藩初代藩主中川秀成(なかがわひでしげ)が石垣づくりのお城にしました。現在も石垣補修や環境整備のため有料となっています。駐車場から、大手門か近戸門の険しい城道を登り、城内の役所・家老屋敷跡を横目に本丸・二の丸・三の丸まで往復30分(最短コースの場合)本丸からくじゅう連山を近戸門からは阿蘇山と城下町を一望できるスポット。二の丸には高等小学校時代に親しんだ「荒城の月」の作曲者瀧廉太郎像(朝倉文夫作)があります




by k-dantyan | 2015-05-07 08:49 | 城跡巡り | Comments(0)

H27.4.16 中津城・福沢諭吉旧家

城下町中津のシンボルとなっている中津城は、天正15年(1587)黒田孝高(如水)の築城に始まり、以後、細川、小笠原、奥平と城主が変わり、明治4年(1871)に廃藩を迎えた。現在の城は昭和39年5月に旧藩主の子孫奥平家十七代の当主、昌信氏によって再建されたもので、高さ23m(5階)5層の天守閣が新改され2階2層の櫓からなっている。天守閣は資料館として公開され、衣装、刀剣、陣道具、古文書など、奥平家所蔵の宝物が展示されている。城全体の地形が扇を開けた形に似ているので扇城とかいわれ満潮時は海水が内堀に入るので海城ともいわれた。◎黒田孝高(1546-1604)播磨生れ。安土桃山時代の武将。天正の初めより信長に属し、秀吉の参謀として各地に転戦、功あり。天正15年豊前6郡の地を賜う。17年退隠、如水と号す。◎細川忠興(1563-1645)(三斎)。丹後宮津より豊前中津に移封。子忠利に譲り退隠。忠利と共に肥後入国。和歌・蹴鞠・有職に通じ、茶道は利久の弟子。◎奥平昌高(1775-1855)五代中津藩主。寛政2年藩学「進修館」を創立。『蘭語訳選』や『中津バスタード辞書』など、いわゆる「中津辞書」を出版、洋学の発展に貢献。

福澤諭吉は、天保5年(1835)に大坂の中津藩蔵屋敷で、13石2人扶持の下級武士福澤百助の次男として生まれました。1歳6ヶ月の時父と死別し、母子6人で中津に帰郷。貧しくとも信念を持った少年時代を過ごし、14歳になって儒学者白石照山の塾に入りました。
  安政元年(1854)、19歳の時蘭学を志して長崎に遊学、翌年からは大坂の緒方洪庵の適塾で猛勉強に励みました。安政5年(1858)には、藩命により江戸の中津藩中屋敷に蘭学塾を開きました。これが慶應義塾のはじまりです。
  西洋の語学力と知識をたくわえたいと考えた諭吉は、万延元年(1860)「咸臨丸」に乗り込み渡米。以後、ヨーロッパ諸国も歴訪し、社会の制度や考え方などに旺盛な好奇心で見聞を広めました。その後『西洋事情』『学問のすゝめ』『文明論之概略』などを続々と著し、当時の日本人に西洋文明の精神を伝えました。

合元寺(赤壁寺)について

通称「赤壁」といわれるこの寺は、天正15年(1587年)、黒田官兵衛に従って姫路から中津に移り住んだ浄土宗西山派、開山空誉上人が開基したと伝えられています。その後、天正17年(1589年)、黒田氏が前領主の宇都宮鎮房を謀略をもちいて中津城内で暗殺した際、その従臣らがこの寺を拠点として奮戦し最後を遂げ、その時の血が何度塗り替えても染み出てくることから、ついに赤色に塗り替えられるようになった、というのがこの赤壁の由来となっています。当時の激戦の様子は、寺の庫裏の柱に残る当時の刀傷からうかがい知れます。また、戦死した鎮房の家臣は合葬し寺内の延命地蔵菩薩堂に祀りたてられています。


by k-dantyan | 2015-05-04 13:55 | 城跡巡り | Comments(0)

H27.4.14 長崎市中島川石橋群

17世紀、長崎の町並みは拡大され護岸を構築し、ほぼ現在の中島川が形づくられました。このころは、キリスト教禁教の時代であり、唐文化の導入により興福寺などの仏寺が次々と建立されました。

寛永11年(1634)、興福寺の黙子如定禅師が架設したこの眼鏡橋は、長さ22m、幅3.65m、川面までの高さ5.46mで日本初のアーチ式石橋として有名です。
川面に映った影が双円を描き、「メガネ」に見えることから、この名前がついたと言われ、『日本橋』『錦帯橋』と並び日本三名橋に数えられます。
また昭和57年(1982)の長崎大水害で一部崩壊しましたが翌年復元され、国の重要文化財に指定されています。

近年では、眼鏡橋をはじめとする中島川護岸にあるハートストーンが、愛を願うパワースポットとして人気を集めています。

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by k-dantyan | 2015-05-03 17:04 | 石橋訪問 | Comments(0)

H27.4.16 小倉城

H27.4.16 小倉城

小倉城の歴史は、戦国末期(1569年)、中国地方の毛利氏が現在の地に城を築いたことから始まります。その後、高橋鑑種たかはしあきたねや毛利勝信もうりかつのぶが居城し、関ヶ原合戦の功労で入国した細川忠興ほそかわただおきによって、1602年に本格的に築城が始まり約七年の歳月を要しました。
 忠興は城下町繁栄策として、諸国の商人や職人を集めて商工業保護政策を実施。外国貿易も盛んにし、同時に祇園祭りも誕生させました。
 細川氏熊本転封の後には、播磨国明石から細川家とは姻戚関係にある譜代大名の小笠原忠真おがさわらただざねが、1632年に入国。小倉・小笠原藩は、将軍・徳川家光から九州諸大名監視という特命を受けていました。
 この時期、小倉は九州各地に通ずる街道の起点として重要な地位を確立し、同時に小倉城は一層充実し、城下町も繁栄しました。
 小笠原忠苗ただみつの時期には、城内下屋敷に泉水を持つ回遊式庭園もつくられています。しかし、1837年城内から発した火災によって全焼。2年後に再建されましたが、天守閣は再建されませんでした。
 幕末期になると、小倉は長州藩を攻める第一線基地となり、その中で小倉と熊本藩は勇敢に戦いましたが、他の九州諸藩の兵には積極的な戦意がなく、ついに1866年、自ら小倉城に火を放って戦線を後退せざるをえませんでした。

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by k-dantyan | 2015-05-03 09:42 | 城跡巡り | Comments(0)

H27.4.16 大分市府内城

H27.4.16 大分市府内城

ふないじょう【府内城】

大分県大分市にあった平城(ひらじろ)。江戸時代には府内藩の藩庁が置かれた。日本城郭協会選定による「日本100名城」の一つ。大分県文化財(人質櫓(ひとじちやぐら)、宗門櫓)。大分市街中心部の大分川河口付近に築かれていた。城と城下町にわたり内堀、中掘、外堀の3つの大きな堀をもち、北は海に接する城であった。安土桃山時代後期の1597年(慶長2)、豊臣秀吉家臣の福原直高は臼杵(うすき)から12万石で府内に転封となった。直高は、大友氏時代に船の荷役を行っていた「荷落」とよばれた場所に築城を開始した。このとき、「荷落」という地名を「荷揚」にあらため、城名を荷揚城とした。これが府内城の起源である。1599年(慶長4)に荷揚城は完成したが、秀吉の死後、実権を握った徳川家康は、石田三成派の直高を6万石に減封のうえ、再び臼杵に転封させ、直高入封前に府内代官の早川長敏を荷揚城に入城させた。しかし、長敏は1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いで西軍に属したために改易となり、翌1601年(慶長6)に竹中重利が3万5000石で入城した。重利は荷揚城の大改修に着手し、1607年(慶長12)までに、4層天守、櫓、山里曲輪(やまざとぐるわ)、内堀、外堀や笠和口・堀川口・塩九升口の各門を築いた。1634年(寛永11)、竹中氏は第2代藩主の重義(重利の子)のとき、長崎奉行時代の不正を理由に切腹・改易となり、日根野吉明が2万石で入城した。しかし日根野氏は嗣子廃絶となり、1658年(万治1)に松平忠昭が入城、松平氏が代々藩主をつとめて明治維新を迎えた。この間、1743年(寛保3)には大火により天守を含む大部分の建造物が焼失し、以後、再建されることはなかった。明治初期に本丸・東丸・西丸の建造物以外は取り壊され、太平洋戦争時には空襲で櫓が数棟焼失した。現在、本丸跡北西隅の二重櫓と西丸の平櫓が大分県の史跡に指定されており、3棟の二重櫓と大手門、土塀、廊下橋も復元されている。JR日豊本線大分駅から徒歩約15分。◇大分城ともよばれる。
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by k-dantyan | 2015-05-02 11:55 | 城跡巡り | Comments(0)

新たに「城跡巡り」のカテゴリーを設定する。古城をしのび当時の社会を想像していくのも楽しく思う。

H27.4.8 熊本県芦北町佐敷城

佐敷城(さしきじょう)は、肥後国の南部、現在の熊本県葦北郡芦北町にあった日本の城。加藤清正によって築城された近世の佐敷城は佐敷花岡城とも呼ばれる。佐敷城の城下は薩摩街道と人吉街道(相良往還)が通る交通の要地であり、戦国時代中期までは相良氏、戦国時代末期には島津氏の勢力拡大をめぐって佐敷城の攻防が繰り返された。

城跡は国の史跡に指定され、指定名称は佐敷城跡(さしきじょうあと)という。

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by k-dantyan | 2015-05-02 07:06 | 城跡巡り | Comments(0)

H27.4.29 オールドカーフェステバルin三角

毎年、「昭和の日」に三角港外港でオールドカーフェステバルin三角が開かれ、W650で参加した。天候にも恵まれ懐かしく、楽しい1日だった。


by k-dantyan | 2015-05-01 14:53 | 旅行・散策・見学 | Comments(0)